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戸籍を深く読み込む

「家系解明報告書(単品価格28,000円)」は家系図作成代行センターをご利用いただいた全ての方に無料でお付けいたします。(※家系図作成補助業務を除く)

一番古い除籍謄本より判明したご先祖様の

「お住まいだった土地」「苗字」「名前」

などから、

「職業」「暮らし」「家紋」「家系」「戸籍以上の調査方針」

をまとめます。

「家系解明報告書」実物見本

「渡辺家の家系解明報告書」家系図作成代行センター代表渡辺宗貴の父方家系

渡辺家除籍謄本1

渡辺家除籍謄本2

渡辺家の除籍から読み取れること

1、現在の北斗市茂辺地です。道南に位置し、江戸時代から開けていた地域です。住民は江戸から明治にかけて漁業や農業で生活しており、安政2年(1855)の「松前記行」には「富有のものもまま見へたり」とありますから、豊かな村だったようです。明治4年(1871)には戸数が143軒あり、人口も810人もいました。渡辺家がいつから茂辺地に住んでいたかは分かりませんが、江戸時代には移り住んでいたのでしょう。

2、現在の秋田県男鹿市脇本です。その地の加藤平助の二男が嘉永元年(1848)渡辺荘兵衛の養子となりました。2009年の電話帳によれば脇本に加藤家は83軒もいます。多すぎるので二代目荘兵衛の兄の子孫を探すのは困難でしょう。脇本村は戦国時代、安東氏の本拠地で江戸時代は秋田藩の領地でした。かなり大きな村で住民たちは半農半漁で暮らしていました。江戸時代、武士が住んでいた土地ではありませんので、加藤家は庶民だったと思われますが、戦国時代は脇本城主安東氏の家臣だったかも知れません。

3、明治9年に養父から家督を継いだ平次郎は、荘兵衛と改名しました。養父の名前を襲名したのです。父の名前を子供が襲名するのは家系に誇りを感じている証拠です。茂辺地には曹洞宗竜洞山宝樹庵というお寺があります。養父の荘兵衛はこのお寺に葬られたのかも知れません。

4、妻のマサも脇本村から嫁いでいます。しかも父親は渡辺藤右エ門という人物です。この渡辺家は当家と関係があると思われます。当家も出身地は脇本村ではないでしょうか。もし、そうだとすれば出身地から養子や嫁を迎えていることから、当家と脇本村の交流は続いており、茂辺地へ渡ってからあまり代数を経ていないのだろうと思われます。先代荘兵衛のときに茂辺地へ渡ったのかも知れません。2009年の電話帳によると、脇本には2軒の渡辺家が住んでいます。渡辺という苗字の場合、渡邊や渡邉と書く家も一族である可能性がありますが、脇本にそれらの家はありません。

5、長男の荘吉にも父祖ゆかりの「荘」文字が使われています。先祖代々、同じ一文字を名前に使い続ける習慣を「通し字」といい、足利家の「義」や織田家の「信」など武士の世界では広く行われていました。これにより当家も武士と同じくらい家に強い誇りを持っていたことが分かります。

6、二男の佐市は明治11年に失踪しています。当時は戸主の許諾なく本籍地を離れると失踪とみなされましたから、佐市は戸主である父荘兵衛と折り合いが悪かったのかも知れません。そのためか復籍後、茂辺地の丸山家へ養子に出されています。2009年の電話帳によると茂辺地に丸山家は12軒います。

7、荘吉の妻となったキノは「秋田県山本郡能代港町字御指南町一番地 斎藤利成伯母」とあります。御指南町は現在の能代市御指南町のことで江戸時代には秋田藩の下級の武士が住んでいました。この斎藤利成という人物は武士です。二人はどのように出会ったのでしょうか。誰かが仲介しキノは嫁ぐとき、初めて北海道へ渡ったのかも知れません。キノは明治36年に荘吉と離縁しました。

8、四男荘太の妻チヨは爾志(にし)郡相沼内村字オリト48番地から嫁いで来ました。現在の二海(ふたみ)郡八雲町熊石相沼町です。2009年の電話帳によると、相沼町には田中家が9軒います。

【家系のヒント】

全国の渡辺家の多くは第52代嵯峨天皇(786-842)の流れをくむ渡辺綱の子孫だといわれています。すなわち嵯峨天皇の皇子融(とおる)が臣籍に降下して源融と名乗り、その子孫の綱が現在の大阪市にあった渡辺という場所に住み着いて、渡辺綱と称しました。これが渡辺という苗字の始まりです。綱は平安時代、源頼光に仕えて四天王の第一に数えられ、酒呑童子を退治したり、一条戻り橋で老婆に化けた鬼の腕を斬りおとしたりと、大いに武名を高めました。その子孫たちは渡辺党と呼ばれ、「渡辺星(三つ星に一文字)」という家紋を愛用し、全国各地に移動しました。秋田県にも住み着き、戦国時代に脇本を支配していた安東氏の家臣にも渡辺喜兵衛や渡辺五郎兵衛などがいます。安東氏が現在の秋田市へ本拠を移し、秋田氏と改名したとき、同行せず、地元脇本で帰農した家系かも知れません。いずれにしても当家のご先祖は明治以前に北海道へ渡った冒険心にあふれる人物でした。

「葛西家の家系解明報告書」家系図作成代行センター代表渡辺宗貴の母方家系

葛西家除籍謄本1

葛西家除籍謄本1

葛西家の除籍から読み取れること

1、現在の青森県北津軽郡板柳町飯田です。江戸時代は弘前藩の領地で、規模は中程度。住民のおもな仕事は農業でした。明治12年の戸数は69軒。人口は男性が256人、女性が215人です。ほかに村には農耕馬が24頭いました。2009年の電話帳によると、飯田には34軒の葛西家が住んでおり、とくに村元という地域に17軒がまとまっています。この34軒のうちに当家の親戚がいると思われます。

2、飯田には江戸時代から明治4年にかけて弘前城下の武士が藩の命令で移住していますが、その人数も少なく、通常、移住士族の家は転居地に同姓の家が少ないという特徴があります。葛西家は飯田に34軒もいますので、江戸初期に飯田に住み着いた村の草分け的農民であり、弘前藩の武士であった可能性はまずありません。とはいえ、これだけ一族を分家させるには相当な経済力が必要でしょうから、飯田の葛西一族の総本家はかなり裕福だったと思われます。

3、「飯田五十五番戸」という本籍地は明治5年に壬申(じんしん)戸籍を作製するとき、まだ土地に地番号が付いていなかったため、家一軒ごとにふられた番号です。何番屋敷と書くこともあります。

4、番戸や屋敷という家の番号は村の中心部から順番にふられた傾向があり、数が少ないほど村の中心部に近いといわれています。当家は明治30年に55番戸から15番戸へ移っていますので、村の中心部付近へ引っ越したことになります。

5、現在の板柳町横沢です。2009年の電話帳によれば、横沢には11軒の太田家が住んでおり、そのうち6軒は富沢という地域に集まっています。この11軒のうちに葛西権八郎の兄の太田家がいると思われます。なお葛西権八郎が養子になった年月日が書かれていませんが、これは権八郎が明治5年以前に養子になったためです。

6、葛西権八郎は「明治二十八年十月七日願済廃嫡」とあります。このとき48歳だった権八郎は何らかの理由で養父の葛西松之助から家督を譲らないと宣告されたわけです。その三日後、権八郎は妻子を連れて分家しました。いったい養父の松之助は壮年の婿養子を廃嫡にして誰に家督を譲ろうとしたのでしょうか。このとき養父松之助と婿養子権八郎の関係に大きな変化があったことは間違いありません。

7、常吉は「飯田字下柳田九十一番地ノ第二号」に分家しましたが、2009年の電話帳によれば、この地には現在でも葛西家が住んでいます。常吉の子孫でしょう。

8、「中津軽郡新和村三和」は現在の弘前市三和です。ここには2009年の電話帳によると18軒の森家が住んでいます。

【家系のヒント】

宮城県から青森県にかけて葛西家は広く分布していますが、その家系をさかのぼると、下総(しもうさ)国葛西郡葛西御厨(みくりや)から発祥した桓武平氏といわれています。御厨とは古代の神社領のことで、葛西御厨は現在の東京都葛飾区と江戸川区の付近にありました。葛飾の西にあるので葛西といいます。葛西氏は、この地に第50代桓武(かんむ)天皇の流れをくむ清重が住み着き、葛西三郎と名乗ったことに始まります。葛西清重は鎌倉幕府を開いた源頼朝の家臣となり、文治5年(1189)の奥州征伐に従軍して大いに活躍し、現在の岩手県南部から宮城県北部におよぶ広大な土地を恩賞として与えられました。その嫡流は戦国大名となり、現在の宮城県登米市迫町佐沼にあった佐沼城を居城として葛西晴信まで続きましたが、豊臣秀吉の小田原陣に参陣しなかったため滅亡しました。しかし、その間に葛西一族は北上を続け、南北朝のころには青森県にまで広がっていました。当家の出身地である飯田のそばには戦国時代、滝井館という城郭があり、北畠顕範という武将がいました。当家の先祖はその家臣の一人だったかも知れません。そして滝井館が天正6年(1578)、津軽為信によって攻め落とされたとき、飯田に逃れて農民になったのかも知れません。葛西清重の子孫は「三つ柏」の家紋を好んで使っています。

「玉置家の家系解明報告書」家系図作成代行センター玉置朱羽子の父方家系

玉置家除籍謄本1

玉置家の除籍から読み取れること

1、現在の和歌山県西牟婁郡白浜町堅田です。江戸時代は徳川御三家の一つ紀州藩の家老だった田辺城主安藤氏の領地でした。安藤氏は明治元年に独立して田辺藩主となりました。石高は3万8800石です。明治初年の安藤氏の家臣に玉置酒造(みき)という武士がいます。当家の遠い一族かも知れません。なお戦国時代、堅田の地は山本主膳康忠という豪族の支配地でしたが、康忠の伯父に玉置図書(ずしょ)直俊という人物がいます。山本家が滅亡したとき玉置図書も逃れて農民となりましたから、当家はその子孫かも知れません。

2、堅田は大きな村落で、明治6年には176軒の家がありました。人口は男性が407人、女性が387人です。住民の仕事は農業のほか漁業、石の販売、塩の製造などです。昭和以降は真珠の養殖も盛んになりました。この176軒のなかに当家も含まれます。ちなみに2009年の電話帳を見ると、堅田には玉置姓の家が19軒います。このなかに当家の親戚がいると思われます。

3、この除籍は明治19年の書式です。そこに「亡父又平」とありますから、又平は明治19年以前に亡くなっていました。堅田に臨済宗松尾山聖福寺というお寺がありますので、このお寺に葬られたのかも知れません。

4、戸主の又平は亡父の名前を襲名しています。父親の名前を襲名するのは、家柄に誇りを持っている証拠です。

5、戸主又平の事項欄に「明治二十二年三月二十一日 再相続」とあります。いったん長男藤吉に家督を譲ったあと、何らかの理由で再び藤吉から家督を取り戻しています。その理由は何だったのでしょうか。当家は複雑な家督の移動をおこなっています。

6、戸主又平は明治22年から5年間、戸主に戻り、明治27年には再び家督を長男藤吉に譲りました。この5年間、又平は何らかの理由で戸主でいなければならなかったわけです。明治27年4月14日に又平は再び家督を長男藤吉へ譲りましたが、その直前の明治26年1月8日に藤吉の弟や妹たちが全員分家しました。明治26年から翌7年にかけて、この家には何か大きな変化が起こっています。弟や妹たちは本籍地を変更せず、戸籍上だけで分家していますから、彼らは父又平や兄藤吉と同じ家に住みながら、戸籍だけを分離したわけです。こういう同居している家族の分家は役所に届け出る書類の必要上という理由が一般的です。戸主の藤吉は、このとき弟や妹たちを分家させていなければ受理されない書類を役所に提出したのでしょう。その書類が何だったのかは今後の調査課題です。

7、「すき」が明治元年に結婚したとき、父親の津田円蔵はすでに亡くなっていました。この津田家も2009年の電話帳によると、堅田に15軒います。そのなかに円蔵家の親戚がいるでしょう。

【家系のヒント】

和歌山県の玉置氏は奈良県吉野郡十津川村にあった玉置山にちなむ苗字とも、和歌山県新宮市熊野川町玉置口から発祥した苗字ともいわれています。いずれにしても玉置という地名から生まれた苗字です。古代から腕に付ける輪状の装飾品の生産地や崩れた崖地を「たまき」と呼んでいました。十津川村の玉置山は装飾品にちなむ地名といわれています。玉置氏は奈良県や和歌山県で栄えた一族ですが、その遠い祖先については判然としません。戦前に太田亮氏(専修大学教授)が編さんした『姓氏家系大辞典』をみても、その始まりは熊野の古代豪族とも、桓武平氏の末裔ともいわれています。玉置氏のなかには江戸時代、徳川将軍家に仕えて旗本となった家もありました。この家も和歌山県出身といい、桓武平氏の子孫という伝承を持っています。家紋は「州浜」を用いています。「州浜」は全国の玉置家が最もよく使う家紋です。

「家系解明報告書」について

「歴史」「地理」「民俗学」「歴史人口学」「苗字」「人名」「家紋」「中世・古代の系図」…等の知識があればご先祖様の職業や暮らし、家紋、さかのぼれる可能性などたくさんの事が戸籍から読み取れます。

【職業】

ご先祖様のお住まいだった土地を調べるとかなりの精度で推測できます。

「苗字」「人名」よりほぼ特定できることもあります。

【暮らし】

こちらもご先祖様のお住まいだった土地を調べるとかなりの精度で推測できます。

また、戸籍から読み取れる人間関係(婚姻年齢・養子先・嫁ぎ先等)よりさらに高い精度で推測・特定できることもあります。

【家紋】

「苗字(名字)」より推測できます。

ほぼ特定できることもあります。

【家系】

そもそも天皇家のどこからつながる家系なのか推測できます。

「苗字(名字)」よりほぼ特定できることもあります。


札幌の家系図作成代行センター

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